錆びを撫でる

ずっとわたしを人間扱いしてこなかったおばあちゃんが、
認知症になってから、
「ありがとう」を添えたニコニコ笑顔を、わたしに向けてくるようになった。

そんなとき、胸の奥で、
とても複雑な気持ちが渦巻く。

おばあちゃんは、
小さい頃のわたしをきっと心配していたんだと思う。
笑わない子、泣かない子どもだったわたしは、
どちらかというと、無表情で、何を考えているのかわかりにくい子どもだった。

そのうちにオナニーを覚えて、
こっそりどころか同じ寝室で平気で続けてしまうようになって、
きっとおばあちゃんには嫌悪感すら抱いたんじゃないかと思う。

わたしはそんな距離を、子どもながらにちゃんと感じ取って、
ちゃんと、祖母を嫌いになった。

(――でも、難しいのは。
私に、今の仕事の基盤になるマッサージを教えてくれたのも、
他ならぬおばあちゃんだったことだ)

嫌いだった。
距離を置いてきた。
それは嘘じゃない。

それでも今、
「ありがとう」と笑いかけるおばあちゃんを見ていると、
心のどこかで、ふっと、情けのようなものが芽生えてしまう。

情けって、良くないものだと言われることもあるけれど、
わたしは、赦すという行為のなかで、
この情けこそがとても大切なものかもしれないと、ふとおもった

赦すって、
強いからできることじゃない。

傷ついたり、怒ったり、憎んだり、
本当は赦したくなんかない、と思う気持ちを、
すべて味わった上で、


それでもなお、


「それでもいいや」と手放すしかないときに、
自然に滲み出てくるものかもしれない。

わたしは、傷ついた。
許したくなんかない、と思った。


それでも、
目の前で笑うおばあちゃんを見て、
どこかにふっと、情けや愛おしさのようなものが生まれてしまう。

きっと赦すことは、
意志で無理に成し遂げるものでもないし、
強いからできるものでもないのかもしれない。

もっと生々しくて、揺れている。

わたしはいま、
その揺れの中にいる。

うまく整理もできないし、
大事にしていきたいなんて、まだ思えない。

それでも、
苦しさを抱えたまま、
情けに触れたこの感覚だけは、
嘘じゃないと思う。

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