2025年11月23日、またXが凍結された。
わたしのアカウントの凍結はこれで二度目で、一度目は2024年の5月頃だっただろうか。まるで“年に一度の恒例行事”みたいだ。
まわりに「心当たりがない」と言ったところ、「心当たりしかないよ」と笑われて、わたしもつい笑ってしまった。
ありがたいことに、2025年のわたしは「おもちゃ箱支配人」として想像していなかったほど多くのご縁に恵まれ、その歩みとともにあのアカウントも育ってきた。
だから凍結された瞬間に湧いたのは怒りでも驚きでもなく、ただ「さみしい」という気持ちだった。
新しいアカウントを作ってみたものの、自分が“消した”のではなく“消された”という事実はどうしても重く、心の準備もなかったせいか、再スタートにもなかなか熱が入らない。
Xをなんとなく眺める時間も減り、それに比例してインプットもアウトプットも減った。
その静けさの中で、「これからどう生きたい?」「どんな言葉を世界に出したい?」「SNSとはどうつき合う?」といった問いが、注射針のように少なく、だけど確実な痛みとして胸の奥へひっきりなしに刺さってきた。
向き合う時間が増えると、これまでXでしてきた「瞬間をおもしろおかしく言語化する行為」が、なんとなく虚しく感じられる瞬間があった。
(もっと戦略的にXを使えばいい、という意見は本当にもっともなんだけど、それは今ここでは語らないでおくね。)
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そんな折に気づいたのが、Xがどれだけ突然消えてしまっても、“生き様として残るもの”は、違うかたちでちゃんと息をしていくということだった。
そしてその気づきは、今年いただいたSODさんとのご縁でより明確になった。
「まいまい」としてお仕事をいただく機会は多くはないが、その少ない中で、単なるエキストラではなく演者として期待され、「まいまい」に仕事を依頼してもらえたことは、わたしにとってとても名誉で、これまでとは違う新しい輪郭を与えてくれた。
(おおきな作品が春頃に発売されるよ)
思えばこの業界に入ったのは「AV女優」という入口がきっかけだった。
でも性そのものを撮ることに心が動かなかったわたしは、その道を選ばなかった。
それでも作品づくりへのリスペクトはずっとあった。
プロの手で作品が生まれる瞬間には、毎度胸がぎゅっとなる。
この手のお仕事の多くはXで軽く書けるような話ではないけれど、消えていってしまう言葉たちとは違って、“残っていくもの”に触れる経験の積み重ねだった。
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年末に出会った「シエンテ」もまた、わたしに大切な変化をくれた存在だ。
勉強会でのご縁がきっかけでセミナーを任せてもらい、その後メンバーとして迎え入れていただいた。
対等に意見を交わせるチームの姿勢は、かつての傷を静かに癒してくれるプロセスでもあるし、未知の領域に挑戦できる場としてとても有意義でおもしろい。
こちらもXではほとんど語らないけれど、間違いなく今のわたしを形づくっている。
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今回のXの凍結で思い知らされたのは、
どれほど大事にしてきた言葉でも、Xはそれ以上の“何か”にはなりえず、突然消えてしまう脆さを抱えているということ。
そして同時に、「セクシャルワーカーだからしょうがない」と切り捨てられてしまう価値観に触れるたび、ひりつくような痛みがあることだ。
一方で、今年いただいたご縁やプロジェクトの時間、作品として残るものは、消えるどころか、むしろ重なり育ち、わたしの一部になっていく。
性産業に従事しているという偏見を超えて、「赦されている」と感じられる瞬間でもあった。
(これは、同じように葛藤を抱えて働く人には、大きな救いになるはず。)
SODやシエンテだけではない。
「まいかなうどん」として新しく始めたスナックイベントも、これまで大切につながってくれているおもちゃ箱のおもちゃのみんなも、わたしのメッシーフェチを一緒に楽しんで寄り添ってくれるメッシー界隈の仲間も、みんな“わたしの一部”だ。
消えるものと、残るもの。
その対照がはっきり見える、不思議な体感がある。
どれだけ言葉が消されても、わたしの歩みまで消えるわけではないし、ご縁がなかったことになるわけでもない。
見えなくても、消えているわけではない。
残るものは残り続け、静かに、自在に、自分の形を整えていく。
言葉は消えても、残るものは残る。
そして残ったものが、これからのわたしをつくっていく。
来年のわたしがどんなふうに歩いているのかは、まだ分からない。
でもきっと、今日よりすこし自由で、すこしやさしく、
そしてすこしだけ誇れる自分であれたらいいな、と思っている。


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