二度づけはタレではなく泥で

日常

2025/6/8 ガタリンピック

メッシーの世界に入りたての頃、あるお客様にこう言われた。
「一度、有明海の干潟に入ってみるといいよ。あそこは“本物”だから。」

その言葉がずっとわたしの頭の片隅に残っていて、
いつしか私は、有明海の泥に恋をするようになっていた。
ただの泥じゃない。
潮の満ち引きであらわとなる、生命感とぬくもりを称えているような、あの“干潟”。

そこには、ただ汚れる以上の何かがある気がしてた。

そして先日、その念願の地で開催されている「ガタリンピック」に、ついに足を運んできた。


たくさんの老若男女が興奮していた。
誰もが童心にかえったように、泥にまみれてはしゃいでいた。
笑って、転んで、また立ち上がっていた。

競技のルールなんてもはや関係ないような自由さのなかで、
“汚れていい”ことが、こんなにも人を解放するんだと思った。

有明海が、そうさせるのかもしれない。
やっぱり、あの干潟の泥は、きっと、ただの泥じゃない。


時期に、わかった。
だって干潟に一歩足を踏み入れた瞬間、
ぬるっとした感触が足首を包んで、思わず声が漏れるのだ。

わたしを優しく、でも確実に飲み込んでいくような
泥。
もがけばもがくほど、ずぶずぶと沈み、
何もできないまま、ただ身を預けるしかなくなる。

それなのに、不思議と怖くなかった。
嫌でもないから不思議だった。
あたたかかくて、心地いいと思った。

抵抗すると沈むことは、わたしを脱力させた。
抵抗すると沈むことが、わたしをたゆませた。

ただそのまま、身を委ねて、
ただ、ひたすらにそのまま、それが許される時間だった。

優しく溶けていくことを、こんなにも受け入れてもらえる体験を、私は知らない。

都会のネオンが他人事に感じた。
わがままになるのではない、
無になるのだ。

私という個体が地球に飲み込まれて、いるのにいないのだ。
輪郭をあいまいにして、静かに溶けていくのだ。


そんなことを考えてほうけていたら、
近くで子どもが泥に顔から突っ込んで「うえぇぇぇえ!」って叫んで、
わたしも一緒に笑ってしまった。

干潟ロスがしばらく続いている。
また来年といわず、またすぐ
行ってしまうかもしれないね。




コメント

  1. higatalove より:

    初めまして。私も有明海の干潟大好きです。有明海の干潟のことをこんなふうに思ってくれる人がいて、とてもうれしいです。
    私は今年のガタリンピックには行けなかったんですが、7月の海の日前後の3連休は干潟に入れる時間が長いみたいで、行きたいな、と思っています。干潟好きで、ほかにも同じこと考えてる人、きっとたくさんいるんじゃないでしょうか。まいまいさん、近々干潟に行かれるようでしたら、その時どこかでお会いできたらいいな…と思ってます。

    なおサイトのアドレスは私が以前(20年以上前)ガタンピックに行った時のルポです。

    • 舞衣 より:

      higataloveさま
      コメントありがとうございます✨
      ルポ見ました!
      当時から変わらない情景と、写真にうつってるみんなの笑顔とどろんこが
      先日のガタリンピックそのまんまで、とてもうれしくおもいました。

      変わらないことの、ありがたさを感じました。
      時が流れても、同じ泥にまみれて笑い合える場所があるって、
      それだけで心のどこかがほどけて、救われるような気がします。
      干潟は、ただの場所じゃなくて、
      “戻ってこれる感覚”そのものなんだなあって、あらためて思いました。

      わたしも、また干潟に行けたらいいなあと願ってはいますが、
      なかなか予定が読めず…💦
      もしどこかでご一緒できるご縁があったら、そのときはぜひぜひよろしくお願いします☺️

  2. higatalove より:

    お返事どうもです!